母の歴史と私 2 京都編 1

北海道の後は神奈川県の川崎に住んでいたのですが、私は幼すぎて殆ど覚えていません。
私の記憶に残っているのは、京都時代からかしら・・・京都でのエピソードは盛り沢山♪
川崎の後、私は幼稚園入園前から小学校の2年の夏休み前まで京都に住んでいました。


幼稚園は衣笠幼稚園。バスがお迎えに来てくれるので、その間母はちょっと休めたのでは?
京都では、ちゃぶ台と掘りごたつでの食事でした。
この頃の父との思い出は、父が晩酌をしている時に父のあぐらの中にすっぽり入って、
おつまみを横取りするのが楽しみでした。
母が作るおつまみは絶品!父は「この子は酒のみになるぞ〜♪」と。。。
でもお酒は好きですが、いわゆる酒飲みにはならなかったのです。残念。
その頃の父は、ゴルフと麻雀を大変よくしていた記憶があります。
麻雀は会社関係の人とで、殆ど我が家でしていました。
夜遅くまで。。。
母は夕食から夜食、そして朝食まで作ってもてなしていましたね。大変だな〜と思っていました。
そこでも母の手料理は大人気でしたね。


子供にとって、京都はとても楽しいところですね。
色々な行事やお祭りがあって、それに参加出来るし。
家は北区大将軍という天神さん『北野天満宮』に歩いて行かれるところにありました。
縁日には駄菓子とかいっぱい買って食べました。
母から食べてはいけない物を言われるのですが、当然私達姉妹は食べちゃいます。
満喫して帰宅すると、「母に○○は食べなかったでしょうね」と言われ、「食べてへん」と答えると
「舌を出してごらんなさい」と言われてべーっと出すと・・・
お分かりですよね♪『真っ赤』でした。バレバレ♪
母は笑って「分かるんだから嘘をついちゃダメよ」と言います。
そして何故、食べちゃいけないかも言ってくれますけど、でも食べちゃうんですよね。


母は、叱る時にはしっかり叱ってくれます。
事によっては手が出ることもあり、その時はかなり怖いですが、愛を感じるので解り合えます。
“何故いけなかったか”という事を説明してくれますので、後で反省できるのです。
ごめんなさいを言いに行くと、いつも「分かったのね」と言って、ぎゅうっと抱きしめてくれました。
このメリハリは凄い!効きます!私も学んで子供達にしたのですが。。。。。。


京都では地蔵盆という行事があります。これはとってもお楽しみの行事です。
住んでいた家のすぐ横の路地にお地蔵さんがあって、そこでゴザを敷いてテントを張って催されます。
歌を歌ったり色々なゲームをしたり・・・
“回せ〜回せ〜♪この珠を鬼のいない間にクルクル回せ〜♪ストップ!”
と言いながら輪になって座り、後ろで大きな珠が付いている縄を送り回すのです。
歌が終わった時に珠が来た人を当てるハンカチ落としのようなゲームがとても楽しく、
ハラハラドキドキでした。
お母さん達は大忙しで、食事の用意やお茶やお菓子の準備もしてくれます。
これが何日か続いたように記憶しています。
子供は楽しかったですが、今思えばお母さん達は凄く大変だったお思います。
有り難いですね。
何年か前に京都に行った時に、ここを尋ねてみました。
我が家であったところは小さなマンションになっていて様変わりしていましたが、ありました!お地蔵さん!
そのまんま。。。懐かしかったです。


当時、我が家は平屋の一軒家、玄関を入って右に行くと勝手口に行く前のお庭があり、
突き当たりに小屋がありました。
物置になっていたのですが、
時々悪さした私は、豪傑なおばあちゃん(父の母)にお仕置きで入れられていました。
愛あるお叱りですから。。。誤解しないでね。
真っ暗で怖かったのですが、慣れっこになる位私は悪さをしていたのですね。
姉たちにこのことを思い出話をしたら、
一番上の姉は一度もなかったと言い、すぐ上の姉は祖母の勘違いで一度だけ経験したそうで泣くほど怖かったと。。。
結局小屋が別荘代わりだったのは、私だけだったようです。
そこを通って本庭に回るところに深い井戸がある屋根付きの土間がありました。
その井戸はちょっと怖かったですね。
次に本庭になります。
本庭の入り口に鶏小屋があり、毎日卵を取りに行くのが楽しみでした。
京都で父の方の祖父母が一緒に住んでいた時期がありました。
時々美味しい鶏料理が出てきていたのですが、それは我が家の鶏をそのおばあちゃんが絞めていたのでした。
父は幼い頃からそれを見ていたらしく、鶏肉があまり得意ではありませんでした。
でも亡くなる前数年間は、なぜだかケンタッキーフライドチキンが好きになって、
週に1・2度は食べていましたね。面白いなと思います。偉大なるケンタ!
その本庭奥には池があり、そこを曲がると玄関門に繋がる庭となります。これで一周です。
その玄関門に繋がる庭に行く途中はトイレの裏、その当時京都は水洗がなく。。。お分かりですよね。
くみ取り式でその口がありました。チョコッと臭かったです。
そこを抜けると小さな庭で、大きなサルスベリの木と鉄棒がありました。
何だか京都らしい佇まいですね。


そのサルスベリです!問題は・・・!
私はその当時大変痩せていて、すばしっこかったのです。今とは大違い!
そしてちゃっかりしていたので、“ずるやのサル吉”とあだ名が付いていました。
“ずるや”は、ちゃっかりしているからで、
“サル吉”は、すばしっこい上にそのサルスベリの木にスルスルと登っていたからです。
木登り大好き女子。ホント今からは想像出来ないですが。。。
ある日、幼稚園の頃そのサルスベリに私の初恋の男と子を登らせました。
とてもおとなしくて可愛い子で大切にしたかったので、木の枝にお座布団を敷いてあげたのです。
そして暫くまったりしていると、その子の母親が来てそれを見てびっくり!私の母に向かって大怒鳴り。
「うちの子になにしてはるんですか!」と・・・急いでその子をおろしてあげて、大目玉。
母はひたすら謝り続けていました。
結局、木に登らせたのもいけない上、お座布団を敷いてあげたのが滑るから凄く危険だと散々怒られました。
今考えるとその通りですよね。
でも母の知らない内に私が勝手にやった出来事。
それなのにあんなに母が怒られて、とても悲しかったしごめんなさいでした。
・・・といつも私の為に頭を下げていた母でした。


私はお転婆な娘“ずるやのサル吉”ですから、しょっちゅう怪我やなんかをしていました。
得意技は自転車乗りです。チビッコイ私は大人用の大きな自転車に飛び乗って、暴走族並み。。。
幼稚園年長の出来事。。。
ある日、後ろに友達を乗せて発車。スピードが出て調子が良い。
その時!その子が怖くなったらしく、後ろのタイヤに足を擦りつけたために、思いもよらず急に止まり、横転!
友達は飛び降りて無事でしたが、私は当時ギザギザのどぶの縁で目の辺りをザックリ切りました。
丹下左膳”(ちょっと古すぎ?)のようでした。
母は急いで病院につれて行ってくれました。けっこうな怪我で、なかなか治りませんでした。
母は友達が無事だったことを安堵し、絶対に友達を乗せてはいけないと凄く叱られました。当たり前ですね。
母は顔の傷が残るのではと、ずーっと心配してくれていました。チョコッと残りましたが。。。大丈夫です。
小学校は大将軍小学校。
また、その小学校の校庭の銀杏を果実ごと必死に集め、欲張って早く大量の銀杏を収穫したくて、
素手でグチャグチャに。。。
当然手も顔も大腫れ、病院に。。。
ある時は、けっこう大きなサボテンが町のお店の前にあって、そのトゲがフワフワに見えたのです。
とても気持ちよさそうだったので、ギュッと。。。
トゲは細かくて凄い数でなかなか抜けないし、でも暫く誰にも言わなかったのですが、
結局母が気付いてお医者様へ。。。大変でした。そして珍しい子だと笑われました。
また、当時京都の小学生は下級生から上級生までつるんで遊ぶことが多く、
町内対抗喧嘩ごっこのような物が、毎日繰り広げられていました。と言っても遊びですが。
私は棒を持ってワーッと攻めていくのですが、一番下でミソッカスなので、なかなか勝てませんでした。
こんな事でも笑って「ガンバレ!」と応援してくれていた変な母でした。


また、学校の側の文房具屋での出来事。
そこには駄菓子もあって、当たり付きの風船ガムを買うのが好きでした。
買ったらその場で開きます。
なぜだか次から次に当たりが出るので、だたで8個位をもらえるのです。
週一くらいで何回か通っていたのですが、やはり当たりが幾つか出るのです。
その内、お店のおばさんに「この子!当たりに印があるのしってるんやで」等と言われて
暫く出入り禁止になってしまいました。
当然、何も印はなかったのです。
ただ、丁寧に包装してあったのを選んだだけなのですが。。。それが当たりだったのでしょうか?
そこでも母がお店に説明しに・・・そして買わせてもらえるようにお願いしてくれました。
でも、今回は私は何も悪いことはしていないのにね。
またある日の下校後、母のアイシャドウを使って、真っ青に塗って小学校の校庭で遊んでいた時、
私は綺麗だと思っていたのですが、お友達が「目どうしたん?」としつこく聞くものですから、
「怪我したんや」と、しおらしげに言ってしまいました。
その後、その友達のお母さん達から「大変でしたね」と母に。。。バレてしまいました!ここでも母は大弱り!


私は何をやるにも突拍子もないことばかり。。。
でもいつも抱きしめて、言ってきかされます。ほんと良い母でした。
こういう類の心配は姉ふたりはあまりなかったらしく、私ばかりが迷惑をかけてたみたいです。


姉が叱られているところは殆ど記憶にないのですが、ひとつだけ覚えています。
母は、月に1・2度はレバー料理をします。特に貧血気味だった長女のために作っていたのでした。
でも、一番上の姉はレバー等内臓系やジビエが大の苦手。
母は「自分のお皿にあるのだけは食べなさい」と言うのですが、一番上の姉は長い時間にらめっこし、
泣きながら格闘していました。時々母が見ていない時に、私が代わりに食べてあげたこともありました。
ある日、姉はどうしても食べられなくて、こたつの中に捨てて食べたふりをしたのです。
当然バレました。
その時に、姉は母から食べ物を粗末にしたことや嘘をついたことで、かなり叱られていました。
幼い頃、姉が叱られているところを見たのは、それくらいだったかも知れません。


この様な私ですから、色々な所にご挨拶に連れて行かれた時にも、父は三人娘を紹介する時に、
私の事を「この三女は突飛な娘で」と紹介するのです。次のあだ名は暫く“とっぴちゃん”でした。


小1の時、肺炎をこじらせた私は他の病気も併発し、生死を彷徨いました。
とても痩せっぽっちの私は、食べる事も出来ずどんどん衰弱していきました。
両親は当時とても高かったお薬を投与してくれたお陰で助かりました。しっかり覚えています。
苦しかったし怖かったし。。。
その後みるみる回復し、食欲が半端じゃない!あっと言う間にプックリして元気になりました。
今思えば、多分ステロイド系だったのでは。。。こういう経緯で?今はかなりふくよか?ですわ〜。
ホント両親のお陰で今60歳までも生きていられます。ありがたい。


ちょっと私のダメ子披露オンパレードで、お疲れだと思いいますので、この辺でいったん休止させてください。


では京都の続きは次回のお楽しみに。