母の歴史と私 1

一昨年の今日、2011年1月21日は母が亡くなった日。
我が家で息を引き取り、私は目に焼き付いて、とても印象に残っています。
母親の死は忘れることが出来ないものですね。良い思い出がいっぱいですが、
未だに思い出すと涙がジワッと滲みます。多分どなたもそうなんだと思います。
その思い出を大切に心にしまうために、ちょっと書いてみようかなと思ったのです。
これは私の心の整理。。。
今はむかしの写真はないけど、でも見つかったら載せられるかも知れませんが。。。
うろ覚えのところも多くあり、時代・時間の前後が違うかも知れないですが、記憶を辿ってみたいかな。
私的なことですし、長くなりますので、興味がおありでしたらどうぞ読んでみて下さい。


母は大正6(西暦1917)年9月19日に福岡県の博多で生まれました。
老舗の綿問屋の分家の長女として生まれた母は、
大正ロマンのステキな小説に出てくるようなお嬢様の生活をしていたようです。
私はその頃の話を聞くのが夢が広がり、ウットリ・・・大好きでした。
もう亡くなったから自慢してもいいですよね。
母が若いその当時、準ミス博多に選ばれたくらい、母は綺麗な人でした。
ちなみにその時のミス博多は母の妹でした。それがずっと残念だったようです(笑)。
女学校は福岡女学校(今の福岡女学院)というミッションスクールに通っていました。
亡くなる数年前まで長ーいお付き合いできるくらい
沢山の良い友達が出来て、その方達とのお付き合いはとても楽しそうでしたね。
そして私達三姉妹も福岡に住んでいる時はその学校に通っていました。
5月には“メイポールダンス”をする学校で、母と同じダンスが出来るなんて
嬉しくてたまらなかったのを覚えています。
家でダンスを練習する時は母も参加し、花の(?)4姉妹(?)でかなり盛り上がりました。
何だか母の動きは変でしたけど、楽しかった〜♪


また母はピアノが大好きで、その女学校当時はかなり上手かったそうで、
後に有名になられたソプラノ歌手『三宅春江(旧姓 豊田)』さんの学生の頃の伴奏は母がしていたそうです。
母は結婚してからもお客様がいらしたり、海外でご招待を受けたお家でもピアノを披露していました。
アメリカでのエピソード・・・あるご家庭でのパーティでピアノを弾くことになったのですが、
子供の頃からのお気に入りでストーリー性のある
アンダーソンの『ワーテルロー(ウォータールー)の戦い』を悦に入って弾いていました。
“シーン???”ここはアメリカ・・・聴いている人が固まっているのに気が付き、
慌てて壮大なアレンジの『さくらさくら』を弾き直して、
みんなの緊張が解れたという話がありました。チョコッとドジでしたね。
その後、ピアノは長ーいブランクがあったのですが、
チャレンジ精神旺盛の母は70歳になってピアノを再び習い始めました。
この無謀なチャレンジ精神・好奇心は私も譲り受けています。
長い間趣味程度に弾いていただけなので、指が硬くて上手く弾かれないと落ち込んでいましたが、
私からすると、その年でも結構弾けるものなんだなと感心していました。
私は母のピアノ演奏は大好きです。とても感情がこもっていますから・・・
その頃は孫達と同じ先生に習っていたので、発表会で私の息子が小2の頃に披露した
孫とおばちゃんの連弾は感動的でした。
とても良い思い出になっています。
90歳になって我が家で暮らしていた時も、デイサービスで何をやりたいか聞かれて、
母は“ピアノを弾きたい”と答えました。
デイサービスの方はピアノを母のために用意してくださっていましたが、
やはり指に力が入らず、音を出すことすら出来ずにとても落ち込んで帰ってきたことがありました。
それくらいピアノを弾きたいと思っていたのですね。もう一度私は母のピアノを聴きたいです。


女学校ではバレーボールをクラブ活動でやっていたそうですが、
母は身長がとても低く、当然、後方でカエルのように待機していただけという話は笑えます。
結構おしとやかで控えめだと思っていた母が、バレーボールをしていたのは意外なんですよ。
でも亡くなるまでの3年近く一緒に暮らしていて、
母っておてんばで姉ごはだで、男っぽさとサバサバした所があるのを新発見しましたので納得です。
女学校の終わりに結核にかかった母は、1年休学をして卒業したそうです。
そして母に特に厳しくて苦手だった数学の先生が、
卒業と同時にプロポーズしに家にいらしたという話は
私にはドラマチックに思えました。お断りしたそうですが。。。


その後、満州に渡り。。。
そこで母はお見合いをして結婚したのですが・・・これも衝撃的な話・・・
これも時効なので書いてもいいですよね。
新婚旅行のようなものは、近くの老舗旅館だったそうです。
旅館に泊まり、母がお風呂に入っていた時の出来事です。
お仲人さんがその時、部屋に尋ねてきて、
母の夫になった人とヒソヒソ話していたその内容が聞こえたそうです。
結局、その仲人さんと夫になった人と、今でいう不倫関係・・・何だか深刻な話をしていのです。
まだウブで純粋な母は、怖いのと気持ち悪いのとで居ても立っても居られなくて、
裏口から逃げて帰ったそうです。
翌日、『○○の令嬢、命がけで裸足で逃げた』という記事がドラマチックに新聞に載ったそうです。
その後は、親に迷惑を掛けてしまったという事と、自分の人生はもう終わったという気持ちで、ひっそり生きていこうと思ったそうです。
日本に戻り・・・
そして戦争も終わり。。。


母はその当時の料理研究家『江上トミ先生』直伝の門下生でした。
私が子供の頃には江上先生のお弟子さんが、よく家に泊まりにいらしてました。
私は興味津々で、お料理のお話をいっぱい聞かせてもらうのが楽しみでしたね。
母は料理が大好きで腕も良い。
分家である母の父が副業として(だったと思います)料亭を始めた時に、
可愛そうに思った父親は喫茶部を母に任せ、そこで当時ではオシャレなプリンやゼリー、
絶品おはぎなどを作って、とっても評判が良かったそうです。
そしてアイディアマンの母は色々な事を考えて生み出し、なくてはならない存在になっていたそうです。
そうそう、母のおはぎは大ぶりですが、とても品が良くツヤツヤの物でした。
どの老舗のおはぎよりも美味しかったと思います。
母のおはぎのファンも多く、作って欲しいと言われて火傷しながら、百個以上作って差し上げていましたね。
たしか何度も漉して、漉し汁を煮て・・・1日か2日がかりでした。
私の大きな後悔のひとつに、このおはぎの作り方を習っていなかったことです。
私はこんなに美しく美味しいおはぎは、どんなに頑張っても作れないですね。未だに。。。
そして私の料理好きは、きっと母譲りなのですね。


その後、戦争で妻子を亡くした父とお見合いで再婚することになります。
父は大正3年9月17日、福岡県の久留米市の生まれ。わんぱくな男の子だったそうです。
わんぱくぼうずの頃、家の近くに『梅林寺』という禅寺があり、その塀を登って塀の上を駆け回っていて、
豪傑の母親(私の父方の祖母)にバケツの水に顔を浸けられて、お仕置きを何度もされたそうです。
それでも、めげなかったと父は顔をクシャクシャにして笑って、得意げによく話してくれました。
今時にはない、母と息子の姿ですね(笑)。
修行僧の駆け込み寺?は父の実家?いつも台所はお坊さんでいっぱいでした。
お腹を空かせた修行中のお坊さんが、父の実家に駆け込み、
父の豪傑母親が、陰でお腹いっぱいご飯を食べさせていたそうです(お寺側は暗黙の了解です)。
そのお坊さん達が京都や東京の有名なお寺の和尚様になられ、
恐れ多くも私が嫁ぐ前くらいまで、よく私の両親の家に泊まりに来て下さいました。
ですから、お寺さんとはとてもご縁が深くなりました。
そして今、私の両親は、その当時一番仲良くしていたお坊さんが和尚様になられている
練馬の『広徳寺』のお墓に眠っています。
余談ですが、娘が通わせて頂いております遠州流茶道の宗家のお墓も同じお寺にあるのを知り、
本当にご縁という物を感じていますね。


父は長崎高商を出て就職した後に戦争に行き、その後シベリアに抑留されたそうです。
その時代の話を聞くのはとても悲しくて、父の辛さが身に染みました。
病気に掛かった父を戦友の看病で命を助けられたにもかかわらず
その戦友の方が移って亡くなってしまったことが、よほど申し訳なさと悔しさでいっぱいだったようで、
涙を浮かべながら何度も話していました。
父が亡くなる頃にも、今までで一番辛く悲しかったことはシベリアのことで、未だに夢で魘されるとずっと言っていました。
あの強い父がそう感じるという事は、よほどのことなのです。
そして、父も前の妻と子供を戦争でなくしてしまいました。「二度と戦争はしてはいかん!」と。。。


戦後暫くして、母とお見合いした父は、当時の男性にしては背も高く凛々しくカッコ良かったようで、
ロマンティストな母は当然一目惚れ♪
後で聞いたら父も一目惚れだったとか・・・♪
お見合いをしたお料理やさんの庭をふたりで散歩している時、
母がウットリして三歩下がらず後ろにピッタリくっついて歩いていたのに気づかず、
父が振り返ったら真後ろにいたため母を倒しそうになってしまい、慌てて抱きしめるはめになったそうです。
いつまでもそれが忘れられないほどロマンチックな印象が強い思い出だったようで、
何度も何度も話してくれました。チョッとドラマチックですね。
当然ラブラブ♪父が死ぬまでラブラブ♪母は生まれ変わっても父を選ぶと・・・ラブラブでした。
羨ましい!


二人が結婚した当時は時代のせいもありましたが、慎ましい生活から始まっています。
そんな当時の生活も楽しかったと話してくれました。
石油会社に勤めていた父は転勤が多く、ふたりとも福岡出身ですので福岡からのスタートです。
その後大阪に転勤し、
そこで昭和24年4月23日に長女、昭和25年7月23日に次女。年子の姉ふたりは生まれました。
年子ふたりは大変だった上、長女がかなり手が掛かる子で、ちょっと倒れてしまったそうで、
母の実家の母付きだったお手伝いさんが一緒に住むことになって、ずいぶん助かったそうです。
それからしばらくの間、彼女と一緒に姉妹のように暮らしていて、
娘時代に返ったようだと楽しんでいたそうです。助けられていたんですね。


その次は北海道の釧路、ここで私が生まれたのです。すぐ上の姉と私は2歳違いです。
私が生まれる頃に1952年の十勝沖地震があり、たしか妊娠7〜8ヶ月の母は外で出くわして、
地割れの側の電信柱につかまってうずくまっていたそうです。大変怖かったそうです。
その後、私は無事生まれました。昭和27年6月2日。またまた女の子!
この地震をお腹の中で経験したからでしょうか、怖い物知らずの私が生まれたのです。


次に神奈川県の川崎、そして京都、福岡、東京と移って行きます。