母の歴史と私6 東京編2

こうやって書いていくと、大人になるにつれて面白いエピソードが少なくなっていくのですね。
何だかつまらない話になってきましたが、
60年間を綴るにはこれくらい長くなってしまうのですね。
あともう少しですから、最後まで続きを書いて仕上げさせて頂きますね。
自分の気持ちの整理のための物ですので、お退屈でしょうから
ご無理のないように、お読みくださいませね。


東京では三姉妹はそれぞれ個性が出てきました。
長女は背も高くて160cm以上。次女と私は150cm半ば。
長女はスラッとしていて次女はスリム。
私は太い(言い訳ですが幼い頃から心臓病や色々でステロイド等を何度も服用したためだと思います)。
長女はクールな性格。次女は芯はめちゃめちゃ強いけど、穏やかでニコやか。
私はいつもブーッとしていて言いたい放で、やはり好奇心旺盛なやんちゃ坊主。
子供の頃からのあの私が大人になっていくと、当然人とぶつかることが多くなりますね。
母にいつも言われます、“言うべき事を言えるのと、言いたい事を言ってしまうのとは違うのよ。よく考えて!”と。。。
よく分からなかった。でも大人になって段々理解出来ました。
本当にいーっぱい痛い目に遭って、いっぱい色んな人の思いに触れて学んでいったのです。
私が痛い目にあった時は、母は慰めてくれますが、何故そういう目に遭ったかを考えさせ、話してくれます。
そうすると自分自身がまいた種が多いのです。そして相手の立場や感情を感じる事が出来るように考えさせてくれました。
かと言って、今それが出来ているかどうかは疑問ですが。。。

私達も大きくなり、お手伝いもするようになったので、お手伝いさんはお里に帰ってもらいました。


その頃の私の趣味は、ペンキ塗りと日曜大工。
自分のベッドや机やチェストを良く塗り替えていました。気分が変わって良い感じなのです。
当時赤坂に“パピエパン”という壁紙やさんがあって、
簡単に貼れるステキなフランスの壁紙がいっぱいありました。
夢のような柄がいっぱい。。。
ある時、幾つか買ってきて、
自分の部屋とすぐ上の姉の部屋とキッチンの壁に可愛い壁紙を一日がかりで貼り上げたことがありました。
可愛くて明るくなったので大満足でした。
が・・・父が帰ってきて大目玉!許可もなく勝手に貼ってしまったのが良くなかったのでした。
暫く何故ダメかを説明してお説教です。
ここは社宅だったので、許可と手続きが必要だったのです。
でも、明るく楽しくなった部屋を見て「なかなか上手く貼れてるじゃないか、いいね」と言ってくれて、
一件落着でした。


みんな段々口数が少なくなっていく年齢です。
私は父とバトルをすることが多くなってきました。頭ごなしな言葉に腹が立つのです。
散々反抗して口答えしたあげくに怒鳴られる。
私が本当にいけない事をしたのに、言い張り続けた時だけは叩かれる事もありました。
姉たちはあまりなかったのですが、私だけ。。。
でも、どうしても私は自分の意見を通したい時はとても怖いのですが、怒鳴られる覚悟で臨みます。
当然やり合ってしまいます。
その後、何日かして、父は必ず「それだけの覚悟があるならやってみなさい」と言ってくれます。
ずっとそのことを父なりに考えてくれていたのですね。
ですから逆に中途半端には出来なくなります。
厳格で厳しい父ですが、本当に私達のことを思って心配して、愛してくれてるのだと感じます。
叩くって体罰?私は“愛情ある叩き”は、体罰とは思いませんね。
それだけ真剣に向き合ってくれるからで、後で理解し合えて絆が深くなるからです。
“もう嫌だーっ”と思ったとき私は。。。家を出ようと思っていました。
家出セットをいつも用意していました。
当時、私はどこででも生きていかれると思っていたのです。
「分かった。出ていくね!」と言って出るのですが、
すぐ上の姉が泣きながら追いかけて説得するのです。足が速い姉に、いつも道の途中でつかまります。
大泣きして引き止めている姉を見ると、帰らざるを得ません。結局実行できた日はなかったのです。
今考えると、姉はありがたい存在だったのですね。


ちょっと時間は前後しますが、
母はいつもあくせくしている感じで、自分を大切にしていなくて、
やりたい事や嫌な事を表現しない母に私は頭に来た時がありました。
母が納戸に砂糖を取りに来て私の部屋に寄った時のことです。
私は「もっと自分を出したら!食事の支度や家事をしたくない時は放棄したら!自分を大事にしないのが嫌いよ!」
と生意気に言ってしまったのです。
母は、その砂糖を放り投げて、袋が破れて飛び散ったのです。
私の部屋の真っ赤な絨毯に真っ白な砂糖。【美しい!いやいやそんな事思っている場合じゃないでしょう!】
私もこの母の行動にビックリでした。
そこにいた長女の夫 (これは姉が結婚した後の事柄) が
掃除機を持ってきて「お母さんも気が強いんだから〜」と言いながら掃除をしていました。
母がキレたのを見たは、それが最初で最後でした。私が母の溜まっていた地雷を踏んだのでした。
でも母はその後、ちょっとスッキリした顔をしていましたけどね。


母はみんなのボーイフレンドにも人気がありました。
いつも「おかあま(お母様)のお茶漬けが食べたい」と言って彼らは作ってもらっていました。
私が作っても「ウーン、何か違う!」というのです。なんなんだろう???たかがお茶漬けなのに。。。


姉ふたりは4大を受験して大学へ。
長女はゴルフ部に入りました。
それは一緒にゴルフをして父との確執を埋めようと思ったからだそうです。
次女はアーチェリー部。おとなしい姉が。。。意外でした。やはり芯は強いんですね。
私はと言いますと、まず美大に行きたくて受験用の絵の勉強をしました。
芸大の先生が家庭教師に来てくれたのです。
“メジチ”の石膏像とキャンバス等を揃えて1年近く習いました。
段々上手くはなったのですが、
“像の裏や中の見えない部分を描いて”と言われても分からないしできない。。。描けない。
そんなに凄い人達が受験するなら、とうてい無理かな。感性なんて簡単に身に付く物ではないですものね。
結局断念しました。それほど強い意志ではなかったという事ですね。
そうやっている間でも、料理は欠かさず続けています。
私達の中高は、日曜日の朝は教会に行くため、土曜日がお休みでした。
ですから土日のどちらかは、三人で晩ごはんを作っていたのです。
この頃に友達を実験台に呼んでフルコースを振る舞ったりしていたのです。
ずーっと作り続けていました。やはり料理がイチバン心地良い。
料理をしたいと思って、受験しないで料理の留学を企てたのです。
密かに調べて。。。でもお金が全然ない。
結局高3の時、受験をしないで料理修行留学の話をしたら、
「何を考えているのだっ!!!」当然猛反対!猛々反対!大目玉!
その当時は今のように留学は簡単ではなかったのです。
一番先立つお金もなく、そこは泣く泣く親の言いなりで付属の短大に行くことになりました。
でも、短大はとても意味ある時間でした。英国詩を専攻しました。
そこで素晴らしい先生と出会ったのです。
高島先生。人生観が大きく変わりました。人生のプラスです。ホントすごく良かった。
“どの道を選んでも後悔ってないんだな”とその時はつくづく思いましたね。
父は三姉妹がそれぞれ20歳の時に、
WFA”というユネスコの青年部補助機関で約3ヶ月ヨーロッパに行かせてくれました。
本当にいつも平等です。
短大の時のこの経験は最高で、料理としても以前書きました画期的な『インド料理との出会い』があったのです。


長女は大学卒業と共にお見合いで結婚しました。間もなく長女を出産して楽しくなってきました。
優秀な次女は、大学の教授の秘書兼助手のようなお手伝いをしていました。
私は卒業後は就職をしないで、銀座の画廊でアルバイトをしながら料理の勉強をさせてもらっていました。
私は高校の頃から、料理学校やお花や編み物、そして母から茶道を習っていました。
柄にもなく花嫁修業のようですね。
華道は近くの個人の先生に習ったのですが、何だか華道は性に合わなかったのです。
出来るだけ楽しむために、毎回テーマやタイトルを決めて生けさせてもらいました。
例えば、クリスマスは“サンタが街にやってきた”とか・・・けっこう先生も楽しんで下さっていましたね。
本当に優しくて可愛いステキなおばあ様先生で、大好きでした。
お料理は成城の家近くに住んでいらした“河野貞子先生”のところにご紹介で伺いました。
この先生がとても素晴らしい。
優しくて、なんかオーラがあるのです。
最初にこんなに素晴らしいお人柄の先生と出会ったことで、
普通の料理学校では学べない“料理とは”を知ったのは宝物です。
この先生と母のお陰で『食の大切さと意味・料理の楽しさ』を身をもって知りました。
ホント私の料理人生の原点となった方です。幸せな事だと思います。
今、料理教室をしている私も、そう言う存在になりたいと思うのです。
大手は飯田深雪先生、陳健民中華学院、某有名な日本料理、ホントいわゆる花嫁修業の域です。
そして少し専門的に習いたいと思い始め、
インド人からのインド料理、フランス文化を知る会のフランス料理とパティスリー・ガトー、
ホテルオークラのパティシエを料理仲間の自宅に招いて個人的レッスンと
当時六本木のフレンチの“テラズ”のシェフ“寺島さん”も自宅に来て頂いてのレッスン等々。
段々料理のコツと調理のパターンが分かってきたので、ひたすら試作と独学に打ち込みました。
やっている内に気付いたことは“食は文化だ”と。。。
それぞれの国の食事を作るには、その国の食の歴史と文化を知らないとと思い、
いっぱい資料を読んだりその国の方にお話を聞いて、学びました。
と言っても楽しいエピソードが多くて勉強という感じではなかったのですよ。。。
父は私が作った料理をとても気に入ってくれてました。
特に“オッソブーコ”
牛肉すねぶつ切りの煮込みがお気に入りで、
文字通り骨の髄まで食べられる料理です(今は食べてはいけないのかな?)。
人様に「この三女は料理が上手くて、骨の髄まで食べられるものを作ってくれて、それが美味いんですよ〜」
と紹介するようになりました。
もう“とっぴちゃん”は返上です。


三姉妹は運転免許を持っていましたが、車は一台。当然取り合いになります。
そこで、私はバイクの免許を取ろうと思ったのですが、それだけは絶対反対されました。
結婚してから、夫と2人で中型自動二輪の免許を取ったのですが、
バイクの危険性がよく分かりましたので、親が反対するのは当然だったなと理解出来たのです。


父は会社を定年になった後、結婚した長女の家の庭続きに家を建てさせてもらいました。
画廊をやめた私は、父の薦めである会社に勤めて今の夫と知り合って結婚。
次女である姉より先に嫁ぎました。
その頃から本格的に料理を教え始めました。
その後、次女も結婚。
その姉の夫は父の部下。結婚後スタンフォード大学への出向で、3年間研究をしていまいした。
ちょっと母の様子が変です。イライライラ。。。沈む時もあれば。。。
今考えれば“空の巣症候群”だったのですね。今になってやっと理解出来ました。
なるべく私は実家に足を運ぶようにしました。
この後は孫達も生まれて家族も増え、毎年軽井沢や熱海に恒例で集まって楽しみました。


ある時。。。
父からのワケ分からない電話。???。。。
その直後、母から泣きながら長女の夫“晴さんが亡くなった”と電話がありました。
えっ嘘!なにそれ!
姉がまだ43歳位だったと思います。心筋梗塞。義兄はまだ50歳なり立てで若い上、三人子供がいて。。。
悲しい出来事でした。
義兄は慶応のヨット部だったので海の男。個性的な人で面白かったです。
そして子供がだーい好きで、いっぱい私達の子供達も海や自然と触れ合って遊んでもらいました。
義兄は早朝、庭の手入れをしていて倒れたのです。まだ誰も起きていない時間。
一番義兄が可愛がっていたコリー犬の“ソフィ”がピッタリ添い寝して付き添っていたそうです。
本当に悲しかったです。
姉の隣に両親の家を建てていて良かった。両親は長女の力になっていたのです。。。