母の歴史と私8最終章

今まで読んで下さいました皆様、お疲れ様です。
長い『母の歴史と私』も最終章になりました。
母の人生と私の人生を合わせると凄く長い物になるので、書ききれるはずはないですね。
では、心を込めて。。。


我が家は夫の両親と二世帯生活。
生活は別々ですが、一軒家です。
私は料理教室をしている上に半同居。
それに家は階段が狭く、複雑な作りなので車椅子生活はとても無理。
色々な事情で我が家に来る事になったものの、どうしましょうと考えました。
夫の両親は快く 「いいよ」 と言ってくれて、納戸の一部を提供してくれたので、
そこに介護用ホームエレベーターを設置することが出来て、母を迎えることが出来たのです。
本当に義父母と夫に感謝です。
部屋はいつもすぐに面倒を見られるように、キッチンとダイニングの生活部分が隣にある
子供部屋だったところを母の部屋にしました。

我が家にいる間は、いろんな事をしてあげたいと、意気揚々としていました。
母は甘いカフェオレに、トーストやクロワッサンを切ってスティック状にし、バターをたっぷり塗って、
それを染ませて食べるのが若い時から好きだったのを思い出しましたので、毎朝出しました。


母はチューチュー美味しそうに食べていました。
これは私が以前書きましたWFAでのフランスのホームステイしていたお家で、
そこのママが 「毎朝我が家ではこれを食べるのよ」 と。。。
それは “甘いカフェオレをカフェオレボールにたっぷり注ぎ、
バゲットを縦に細長く切ってトーストした物に美味しい無塩発酵バターをたっぷり塗って、
カフェオレに染ませながら頂きます”。。。母と同じ朝食だったのです。
これを見て、若い頃からこの食べ方をしていた母はとてもハイカラな人なんだと、
当時感じたのを思い出したのでした。
どこでこの食べ方を知ったのかしら?ほんとオシャレな母です。


母が我が家に来たら、今まで経験した事ない私っぽいちょっと突飛なことをと。。。
母はいつも車での生活でした。あまり電車に乗ったことはなかったのです。
まず、車椅子で地下鉄に乗り、有楽町ガード下の焼き鳥屋さんに初めてのデビュー。

そして車椅子で横浜中華街まで行った時はちょっと大変でした。
本当に地下鉄の駅員さんは大変親切で、ニコニコしながら階段昇降機に乗せてくれます。
乗り換えの時の他の地下鉄との連係プレーも凄い物を感じました。
「いつでも遠慮なくご利用下さい。私達の仕事ですから。。。」
素晴らしい!
初めての経験でしたが、母も私も嬉しかったです。

六義園のお散歩やしだれ桜のライトアップやクリスマスキャロルの演劇は感動的だったようで、
涙ぐんでいました。

神楽坂の甘味屋さんでも大喜び。月島のもんじゃデビュー。

また、お料理教室の下準備で、めげずにさやから豆を出すお手伝いもしてくれました。
誕生日のお祝いや季節の行事も、夫の両親も揃って楽しめました。

母はお化粧をするのが嬉しかったのです。
いつも美しくしていたかったので、亡くなる間際までしていましたね。
中目黒の美容院に行くのは、オシャレな母は大喜び。
その後、行くのが困難になって、そこの方がカットに来てくれるようになりました。
その時は、前日に私が市販の白髪染めを買って髪を染めて、その直後に看護師さんが入浴シャンプー、
その翌日にカットに来てもらうという、それも連係プレーでやっていました。


髪型が綺麗になるのが凄く嬉しいようで、 「今度はいつ?」 と聞くのです。
そしてヘルパ−さんに髪型を褒められると、大変ご満悦でした。本当にオシャレな母でした。
ヘルパーさんや看護師さん主治医の先生と上手く打合せをして、順調にスタートです。
全ての介護は、人と人との信頼ある連係プレーだと思いました。
良く笑ってよく食べた日々でした。母は人と目が会うといつも “ニコーッ” と微笑みます。

ヘルパーさんや看護師さからは、
“凄く可愛くて素直でとても楽しく仕事が出来きて、ここに来るのが楽しみだわ” と言って頂けました。
母は感謝する事を知っています。何をしても 「ありがとう。あなたも少し休みなさい。体を大事にね。」 と
いつもみんなに声を掛けていました。
また母はパーキンソンで字も書けなくなっていたのがとても悔しかったようで、“書きたい”と・・・
毎日、紙と鉛筆を渡して練習に励んでいました。筆圧は弱いですが、しっかり書けるようになったのは、凄い根性!

また、ピアノも弾きたいというので蓋を開けて弾かせたのですが、音が殆どでなくて落ち込んでいました。
それから凄く時間が掛かるのですが、
画期的にアクティブな生活になっていたのです。そしてお腹を抱えて笑うことも多くなったのです。
“良かったわ”と思いました。
食事は初めは、みんなで食べていたのですが、晩が遅いのと朝がバラバラなので、
母はみんなが見えるように扉を開けたまま母の部屋で食事をして、TVを観て横になるという生活が殆どでした。
食事はみんなとほぼ同じ物を作ります。同じ状態で出して“みんなと同じ食事よ”と見せてから、
食べやすいように刻んだり潰したりしました。


初めからピュレ状にしていると何を食べているのか分からないし、味気ないですものね。
このことはとても大事で、食べる意欲が沸く素です。
食事を見せると 「ワッおいしそうね!」 と。。。
成功です。


でもね、
私は思っていたよりきつい毎日でした。
朝ご飯とお弁当を作りながら教室の準備と下ごしらえ。
次に朝のトイレに母を連れて行きますが、
リハビリを兼ねて倒れない様に気を付けて手引きで歩いて行きます。
顔を洗ってあげて着替えをします。
朝ご飯を食べさせて、入れ歯と手を洗って、お化粧をして髪の毛をとかします。

TVを付けて車椅子で見てもらっていて、
その間に娘も手伝って家族の朝食の用意をして、Alainの目薬と飲み薬とご飯を用意。
みんなは朝シャンしてご飯を食べて家を出ます。
教室のテーブルセッティングを終え、準備万端整ったら、私も朝シャン。
それからヘルパーさんが来てバトンタッチと共に、Alainの朝のお散歩に1時間程出ます。
その間にヘルパーさんが母をトイレにつれて行って、ベッドに寝かせてくれるのです。
急いで帰ってきたら、教室が始まります。
母と一緒に暮らしている間は、生徒さんにもご協力頂いて早めに終了させて頂きました。
教室が終わったら母のお昼ご飯です。
その後ヘルパーさんがトイレにつれて行ってくれたりしている間に
翌日の教室の買い物と準備と晩ごはんの用意。
そうしている内に先に母の晩ごはんになります。Alainの薬と食事と最後のトイレ。
母の就寝準備とマッサージ。。。
そして夫と娘と私の食事となります。
勿論、夫も娘も出来る限り手伝ってくれますが、
全ての家族のことを終えて翌日の教室の準備の仕上げをしていると、毎日深夜3時か4時の就寝という生活。
母の下剤は夜中の2時がベストなど、なかなか気が抜けません。
でも、一度救急車で運ばれて点滴をした以外、亡くなるまでこれが続けられました。
この頑丈な体は幼い頃からの食生活で作られた物だと、親に感謝しましたね。


体はきついし時間が押せ押せ。
朝ご飯もゆっくりしか食べられない母。私は教室が待っている。。。
「もう少し早く食べて」 。。。
ちょっとパニックになって事務的になり始めた頃、当時大学生だった娘が助けてくれました。
本当に丁寧に心を込めておばあちゃんに接してくれました。
食事の時も 「これは鶏肉よ。しっかり噛んでね。美味しいでしょう?」 と
料理の説明を交えながら楽しく食事をさせてくれたのです。
いつも「会話もなく、口に入った物が何を食べているか分からない程つまらない食事はないのよ」と
言っている私の言葉を実践してくれたのです。




また食欲がなく水分補給もままならない時もありましたが、グッドアイディア。。。
カットしたフルーツに栄養補給ゼリーを入れて和えるのです。

食べやすいし、これは効果ありましたね。
トイレも就寝のお世話も、足や腕のマッサージも。。。
不思議ですが、母の手もスプーンを持てるようになり、自分で口に運べて顔もプックリしてきて表情も豊か。。。
これは娘の根気強いマッサージと話しかけと、
バランスの良い食事と、それをしっかり噛んで食べさせた娘のお手柄です。
大学も大変なのに、本当に頑張って手伝ってくれました。これで私も気持ちが楽になり、パニック解消でした。
娘には、感謝で一杯です。


私は、なかなか理想にしていた母とゆっくり話をして美味しい物を食べて、
ゆったりとした時間を持ちたいという事は出来ません。
忙しすぎました。
“これが落ち着いたら、これが終わったら。。。” 常にそうでした。


2011年1月11日の鏡開きの時に、ちょっとだけゆっくりお汁粉をふたりで食べました。

いっぱい話が出来ると思っていたのに、母はかなり弱っていたのか、
うっすらと微笑んで 「美味しいね」 と言うだけで、話は殆どしませんでした。
私は悲しかったのです。
その後、暫くして母は痰が絡まるようになり、眠っている時間も多くなりました。
家庭で看取るのを私が望みましたので、
主治医と看護師さんに痰のとり方や褥瘡の仕方を聞いて、やり始めました。


そのお汁粉の10日後です。教室が終わってカフェオレを作って 「おかあま〜、お昼よ〜」 とドアを開けたら
様子が変でした。
まだ温かい。 “ うそでしょう!”・・・ 分からないけど、さすったり呼んだり、
涙が出そうだけど泣いたら現実になると思ったり。。。
“ もう少し早く教室を終わらせていたら。。。”と
すごーく後悔したのです。ずっと引きずっていたのです。


主治医の先生に電話をして、ヘルパーさん看護師さんケアマネ、みんな集まって。。。
「ご家族に連絡を」 と言われました。
ワケわからなくてみんなに連絡して、集まって。。。
もう一度主治医の先生が来てくれて、夕方4時過ぎに臨終でした。
享年93歳。十分長生きしました。
母は、人にいつもそして最後まで感謝して生きた人生です。


本当に介護をヘルプして下さった方々、
私を支え協力して下さった友と生徒の皆様、そして家族に感謝です。
高齢社会、介護問題、色々ありますが、介護するには色々な方の協力と心のよりどころがないと、
かなりきついです。
私はとても幸せな状態で母を看取ることが出来たのですね。これも感謝しなくちゃですね。



亡くなる3日前、ショートステイに5日間の予定で行っていたのです。
私の体を休めさせてもらうために、月に1度4〜5日のショートステイを組んで頂いてたのです。
亡くなる2日前に体調が良くないので、早めに切り上げてショートステイから帰ってきました。
帰宅する前日、そこではお風呂に入れて頂いて綺麗になり、ご飯もしっかり食べて、
山のような排泄を済ませてスッキリしていました。“ ありがとう ” と・・・
人の手を煩わせまいと、全ての旅支度を自分で終えたのでしょう。最後まで綺麗で凄い母でした。


お通夜がある日の夜中、愛犬のAlainが緊急手術となり、どうなることかと思いました。
その月にこの同じ手術を受けたワンコは、一頭も助かってなかったと後から聞き、ヒヤッとしました。
結局Alainの大好きなおばあちゃんがいなくなり、そしてこの異常な雰囲気を感じての胃捻転。
でも母が助けてくれたのです。奇跡的でした。


お通夜と告別式も密葬でしたが、沢山の方が集まって下さいました。
息子も駆けつけてきてくれて、私の肩を抱いてさすりながら、
「ママ大丈夫?頑張ったね。お疲れ様」と言ってくれたのには気持ちが緩んで、涙が溢れました。


棺の中の色とりどりの花に埋もれた母を見て、口々に 「わ〜綺麗!」 と。。。
本当に娘の私達から見ても、とても美しかったのです。


“これでよかったのかしら、もっと楽しくゆっくりさせてあげられたのに ”
“ 最期が私でよかったのかしら ”
“ 思い描いていた過ごし方が出来なかった。もっともっと話をしたかったのに。”
そして最期の日のこと。。。
ずーっとずーっと思って引きずっていました。


父も母も最後まで楽しくしっかり生き抜いた気がします。良い人生だったと思います。


このブログを書くことによって、この悶々とした気持ちの整理をさせてもらいました。
なぜ?今涙が止まりません。
親への感謝しかありません。
いっぱい色々な事があったことを思い出せました。そして自分を振り返り、何かが見えてきた気がします。


厳しい父だったけど、私とはふざけることもしてくれました。

でも本当にめちゃくちゃ厳しかったし怖かった。特に私とは良くぶつかりました。
“何で?”何度も思いました。
“嫌だ!おとうま、何で理解してくれないのかしら”と・・・
思い返せばそれがどんなに大きな愛だったか、
本当に私の事が大切だから心配で、幸せになって欲しいための行為だったのにも気付きました。
そして本気でぶつかった時は最後は私の意見を尊重して、
思い通りにさせてくれていたんだなと言うことにも気付きました。
また、どうにもならないことになった時も、いっぱいみんなで話し合う家族で、
最終的には父と母が助けてくれました。
とても大変だったと思います。
しっかりした精神、色々な経験、まっすぐな強い心、
子煩悩で家族を愛して、子供達を豊かに育ててくれた凄い父だと新たに思いました。
(ひ孫と父〉


母はいつも私をギューッと抱きしめてくれていました。
それの行為は、心をホワッと解きほぐしてくれる事を知りました。
(ひ孫と母)
母は、人に感謝する事の大切さ、母の強さと忍耐力、相手のことを思って行動すること、人を楽しませること、
大らかさ、包み込む温かさを身を以て教えてくれました。
そして私にとってのライフワークとなった美味しい“食”を作る事は、
心と体と人を作りそして人との関わりを育てる大切で楽しい物だと教わりました。。。
私は母がだーい好きで、母無しで大丈夫な年齢ってどれくらいかしらと思っていた時があります。
でも、この歳でも母がいないのは打撃です。勿論オロオロするほどはないのですが、
幾つになっても大丈夫ってないのかもしれませんね。


そうなんですね。両親はしっかり叱ってくれ、いっぱい愛してくれました。感謝で一杯です。


“ 先人の言葉を聞く ”という事は、どの時代にも大切な事なのに、どの時代もそれがなかなか出来ないのだと思います。
本当に先人の言葉に耳を傾けて実践したら、失敗の少ない良い人生が送れるはずなのに、人間はそんなに簡単に出来ないものなんですね。


えらそうに “ 私ならこうする ”とか文句ばかり言っていた私でした。
こんなに両親から沢山の物を頂いたのに、私はなかなか身に付いていないように思います。
今、親となって、親が子供を愛する気持ちや守る気持ちがよく分かりました。
私はまだ未熟な気がします。未だに親になりきれてないのかも知れませんね。
今からでも遅くない。ふたりの心で培われた物を十分に子供達に伝えていきたいと思います。
そして私の残りの人生も大切にしたいと思い直せました。

                      


私のつまらない人生をブログに書くなんてと思いましたが、最後まで書けて良かったと思いいます。
気持ちの整理が付いて来た気がします。
これを書くことで、両親への供養にもなるのなら嬉しいです。


そして読んでくださった方、長々とごめんなさい。そしてありがとうです。