母の歴史と私7 東京編3

みんな何の変化もなく平穏ですが、それぞれなんとなく忙しい生活が営まれています。
両親も長女の家族の力になりつつ、お互いを支え合って生きています。
一番上の姉の子供達も結婚して大きな家族になっています。
父は、たったふたりからこんなに沢山の家族になったことをとても満足して、何度も何度も自慢していました。
しかし、両親はかなり歳をとってきました。
母は、若い時から病気や怪我や事故をしょっちゅうしていたので、
「私は早死にするのかな」と言っていまして、
不安に思っていましたが、でもその割には長生きしています。
みんなで母の長生きを笑い話のように、“ウフフ良かった〜”と思っていたら
70歳の終わりに“横行結腸癌”になり手術をしました。
摘出した患部を見せてもらいましたが、プリプリしていて(表現が失礼)若々しい。
さすが食いしん坊の腸!
暫くしてから退院。
まあ凄い食欲。ホント“食は生命の源”を証明する人でした。
段々回復して超元気。またまた穏やかな日々を過ごし始めて、ホッとしました。良かったわ。


一方、父は80歳の終わりになっても自転車に乗って、スーパーの買い物に行くのを楽しんでいました。
例のスクーターとは違って上手いです。
でも高齢なのでみんなは心配で止めるのですが、聞きません。
この“人の言うことを聞かない性格”は、やはり私の父だと思いました。
母は、段々足が弱くなってきました。そしてメニュエル、パーキンソーンになってしまいました。
動くのが辛そうで、ヘルパーさんをお願いして、介護がスタートです。
毎日数回のヘルパーさんと週に2回位はお手伝いさんが来てくれますが、
家事は隣に住んでいる一番上の姉とその子供達と父がやっていました。
父の足も段々弱ってきています。
ある日、母がリビングで車椅子に座っていて、
父はダイニングで何か用をしていた時に、足が絡まって倒れて立てなくなっていたそうです。
母は動けなくて、どうしたら良いか分からなくて焦っていました。
「おとうま!おとうま!(*私達はお父様を“おとうま”・お母様を“おかあま・お姉様をおねえま”と呼んでいました)」と
叫んだそうですが、誰にも声が届きません。
運良く配達の人が来てそれに気づき、隣の家の姉に知らせてくれて病院に行くことが出来ました。
頭を打っていたのです。
この光景を思い浮かべるだけでも、悲しくなります。
脳内出血をしていて危ないとのこと、手術をすることになりました。
無事手術は終わりました。
暫く入院です。
手術後、父は「もの凄く痛かった」と。。。
途中で麻酔が切れかかっていたらしく、それを我慢していたのだと言うのです。そんな事ってあるの?
そうだったら戦争に行っていた人って、とことん我慢強いと思いますね。
でも多分、朦朧とした中での意識だったのだと思いますが。。。。
痛みを想像すると可愛そうで涙が出ました。そして入院すると、特に老人は足が弱りますね。
段々歩けなくなって来ています。リハビリをするのですが、なかなかですね。
それでも根性で、ひとりの時に歩こうとする父。何かあってはと止める姉。
毎日がバトルだったと言っていました。
あ〜父の体にも癌が。。。
でも余りにも高齢なので、手術はしないことになりました。
かなり痛いようです。
そんな中、私の娘の成人の写真撮りと、お祝いの会食には参加してくれました。

かなり痛かったようで、いつものパワーは全くなかったのです。
体が大変だったのに、わざわざ来てくれてありがたかった!
今でもその記念写真はピアノの上に飾っています。


また、そんな体調でも、年に1度は家族のルーツ5人で箱根の温泉に行くようにしました。
父と母の体が心配です。美味しい物を食べてゆっくり話して癒やてあげるしかないのですが。。。
父が温泉に入る時には、男風呂なので私達は付き添えません。
車椅子で扉の前まで連れて行き、
人がいないのを見計らって脱衣所まで入れて、手伝います。
その頃まだお風呂には自分では入れるくらいでしたが、心配でしたので扉の前でスタンバイしていました。
中には数人男性が入っています。
なかなか出てきません。
どうしたのかしらと思っていましたら、
お掃除のおばさんが、脱衣所で座り込んでいる父を見つけて知らせてくれました。
立ち上がれなくなって困っていたようです。
着替える時、私を呼ぶ約束でしたのに、1人で出来ると思って呼んでくれなかったのです。
慌てて着替えさせて部屋まで連れて行きました。つくづく男の兄弟がいたら良かったのにと思いました。
“老いる”という事は、みんなを引っ張ってきたあの父には、とっても悔しいことだったのですね。
その旅行では癌の幹部がかなり痛かったようで、楽しむ事が出来ず、ずっと横になっていました。
それが最後の旅行になったのです。


両親の介護にはヘルパーさんはお願いしていますが、一番上の姉1人で2人の世話をしています。
私とすぐ上の姉はその大変さが実感としてなかったので、時々手伝いに行くだけでした。
私は仕事があって、すぐ上の姉は千葉に住んでいるので遠いということで、なかなか行かれませんでした。
でもこれは理由で、頑張れば行く事は出来たはず。
その上、「ああしてあげて、こうしてあげて」と一番上の姉に注文ばかり。。。。
無責任なことをしていました。まったく。。。
本当にごめんなさいね。


母の方が弱っていたので、先に逝くのではと思っていましたが、結局父は1ヶ月程入院して亡くなりました。
8月末の熱い日。享年92歳でした。
父が入院している間も、一番上の姉とその子供達や姉の孫達と一緒に母を父の病院に毎日連れて行ってくれました。
8月、私の仕事も夏休み。
私とすぐ上の姉も実家に2週間程泊まり込み、手伝いました。
こんな事で集まっているのに、キャーキャー思い出話に花が咲くのは何故?
父のお見舞いに行く母は、車椅子に乗ったまま病室にいる間中、
朦朧としている父をさすり、腱鞘炎になる程手を握っていました。
最後までラブラブ。。。でした。。。
ある日、母は父の手を握りながら何か心で会話をしていた様子でした。
黙ってうなずいて。。。何か“分かった”という様な顔をしました。
それからは心配顔がなくなり、覚悟を決めたキリッとして穏やかな様子になった時点があったのです。
どうしたのかしら?何だったのでしょう?
父の死の瞬間も葬儀の時も取り乱すのではと思いましたが、
母はとても穏やかで、涙をスーッとひとすじ流しただけでした。
ああ多分あの時、父と会話をして分かり合って全てを納得したのだと思いました。


父の葬儀は密葬にしたのですが、
父は生前、親戚を初め、色々な方の就職や結婚や困った時などの面倒をいっぱいみていましたので、
沢山の方からの見送りを頂戴しました。ありがたいです。
大正時代から平成まで生きた父。
戦争や色々な辛い事、また楽しい事、素晴らしい事を経験した盛り沢山の人生でした。
本当に会社でも活躍し、私生活でも多くの人の力になり、助けて皆様のお役に立てた良い人生でした。
そして何より家族思いの人でした。そして引っ張って行く力、守る力が大きな人でしたので、
父のお陰で何不自由なく全てのことを安心して生きて行く事が出来て、
家族の輪がしっかり成り立っていました。
怖い存在でもありましたが、本当にみんなから頼られる大事な存在でした。
私とは一番バトルをしましたが、生き方も性格も一番父に似ていると言われます。
父の凄い愛を感じ、
愛ある強さと人のために労を惜しまないこと、目的を持ってチャレンジし努力すること、
感謝して生きる事を教えてもらいました。
ありがたいです。



その一年後、四年半に渡り両親ふたりの介護をしていた一番上の姉を休ませるために、
母は我が家に来たのです。