母の歴史と私 4 福岡編

さて福岡に着きました。私は小2の夏休みです。
福岡、博多は母の出身で親戚がいっぱいいます。
父は久留米出身ですので、やはり親戚がいっぱいです。
初めて従妹と遊べた時代です。


着いた時はまだ家も決まっていなくて、暫く旅館暮らし。
閑静な離れに住まわせてもらっていました。
そこで到着した日、夕食はステーキだったのです。おいしくてパクついていました。
すると母の様子が変です。苦しそう。なんとお肉を喉に詰まらせて息が出来ない状態。
急いで父が背中をさすったり叩いたり・・・ありとあらゆる行動をしていた記憶があります。
母はやっとはき出せました。
それから具合が悪くなり、お医者様が往診に来て下さいました。
疲れだそうです。
転勤でのみんなとの別れはとても辛い物です。
母は皆さんとしっかりお付き合いをしていましたので、かなり泣いていました。
その心労と引っ越しの疲れが一気に体に来てしまったのでした。暫く熱も下がらず、旅館で療養。
その後、家が決まり、またまた引っ越しの作業です。


福岡市野間多賀町。ちょっと高台でここも平屋です。
ここでは住み込みのお手伝いさんが1人いました。
通いでも2人いて、その内の1人は料理担当です。
彼女のお料理は大変美味しくて、料理好きの私は付きっきりでいました。
オックステールのスープ煮は絶品でした。
その時に作り方を教えて頂いたこのスープは、私のレシピのベースになっています。
ここでプロフィールにも書きました“ポテトチップ発明”をしたのです。
因みにこの研究に付き合ってくれて、じゃがいもをうすーくスライスしてくれたのは、
料理担当のこのお手伝いさんでした。


この頃は母おはぎを沢山作っていました。火傷しながら作っていたので、
凄く大変なおはぎのように思えたのです。
本当にツヤツヤで品が良く、赤福を大きくしたように指の跡のような仕上げで絶品でした。
これが母が結婚前の喫茶部で出していて、
母の父親が嫁に出すとこれが出せなくなると困っていたほど、
大好評のおはぎだったのです。
本当に私は失敗しました。この作り方を伝授してもらっていなかったのです。
母が亡くなった今はもう食べる事が出来ません。
どんなに頑張ってもあのおはぎは出来ないのです。凄い損失ですわ。


福岡は台風が半端じゃない。凄い洪水が良くありますね。
我が家から町に下りていく途中に大きなどぶ川がありました。水量がかなり上がるのです。
ある時、台風が去り、お手伝いさんの町子さんが止めるのも聞かず、下の商店街まで買い物に行きました。
なかなか帰ってきません。
みんなで心配していると、お巡りさんに連れられたどぶ水でずぶ濡れの町子さんが帰ってきました。
橋の欄干が水で覆われて、道と川が分からなくドボンと落ちてしまったそうです。
足が着かないほどの深さになっていたので、
溺れそうになっていたところをおまわりさんに助けられたとのこと。
ヒヤヒヤものでした。母がお風呂を沸かして急いで温まってもらいました。


ここでは、父もゆとりが出来たのか、美味しい物を食べに連れて行ってくれたり、
旅行もいっぱいしてくれました。
食事で美味しかったのは、博多水炊きで、特に“新三浦”のが好きでした。
母はここで作り方のポイントを教えて頂き、我が家の水炊きを完成させたのです。
九州で私が好きなところは、異国情緒ある長崎と別府温泉の地獄めぐりでしたね。
長崎は卓袱料理で豚の角煮はだーい好きでした。
父と色々な事を一緒に出来た時代です。
庭でゴルフを教えてくれたり、蝉取りや雀取りの仕掛け・・・捕れませんでしたけど。
この頃父は、ゴルフに毎週のように行っていました。私達もよくつれて行ってくれていましたね。
クラブハウスで待っている私達は、勿論、お昼ご飯が楽しみでした。
また、父は写真の趣味があり、父が撮ってくれた家族の写真が山のようにあります。
そして現像・焼き付けまで1人でしていました。
私もお手伝いするのが大好きでした。
白い印画紙を液に浸けて揺すっていくと、段々映像が浮き出てくるのを見るのがこよなく好きでした。
本当の暗室はなかったので、チョコッと感光気味の写真ばかり。。。
でも、父はご満悦でした。
また大工仕事のような物に凝り、踏み台やイスなど作っていましたが、なかなかの物でした。
何をしても、とても器用な父でしたね。


福岡では、いつもお客様がいっぱいでした。お手伝いさんがいてくれて大助かり。。。
そして突然のことも多く、常に母は料理を考えて暮らしていたようです。
多い時で30数名ほど、大皿に煮物や揚げ物・・・ありとあらゆるお料理を出していましたね。
その当時、福岡辺りだけなのかも知れませんが、
突然でもお客様がいらしたら食事を持て成していたようで、
それも足りないというのは恥なことだと。。。
ですからあまるほどのお料理を、母達は作っていた記憶があります。
母の料理は大好評で、本当に美味しくて、皆さんがまた来たいとおっしゃっていました。
本当に、またまたいらっしゃいます。
昔の奥さんは、今とは違って皆さんと食卓でご一緒するというより台所に立ちっぱなしです。
“大変だな〜”といつも思っていました。
でも母は言っていました。料理は人の心を和ませて繋ぐ物だと。
そして私達には心身が成長する必要な物だと。
だから美味しくて栄養がある料理を楽しげに作ってくれていたのです。
行事も大切にして、その都度ごちそうが出来て来るのを楽しみに待っていましたね。
その思い出があるので、私も行事の意味を大切にして、その日はごちそうを作る様になったのです。


この頃、我が家にはワンコは“コッカスパニエル”がいまして、多い時で3頭。
その面倒も母がみていて、本当に大変だったと思います。
今も昔も、わんこを飼いたがるのは子供で、世話をするのは母親ですね。。。今の我が家も。。。


ここでは親戚との関わりが増えましたので、とっても楽しかったし、母は懐かしくて嬉しそうでした。
叔母や従妹達が泊まりにも来てくれていたので、私達は嬉しくて楽しんでいました。
従妹は大体同い年なので、泊まると合宿状態ですよね。
それも嫌がらずに精一杯もてなしてくれていましたね。
今考えると母は大変だったと思います。


ここでも母は色々とね。。。心配だったんですよ。
母は私達ともよく遊んでくれました。
その当時は、かなりふくよかになっていた母です。
ある時、なぜだか私達と縄跳びをしていたのですが、
何かが『パキッ』。
母の足首のアキレス腱が切れたのです。すぐ病院に行って手術です。
ずっと松葉杖をついて、忙しいのに大変でした。心配です。
長く掛かりましたが、しっかり歩けるようになって一安心です。


そして、家の中の事故で大けがを。。。私は小5の頃だったと思います。
夕飯にお鍋かすき焼きだったと思うのですが、テーブルにはガスコンロとお鍋が用意されていました。
私はその横でTVを見ていました。
昔のテーブルコンロはカセットボンベでなく、ガスホースで繋がっているのです。
そろそろお鍋を温めなければと、お手伝いさんがTVを見ながらマッチを擦ったとたん。。。
テーブル上中、火の海です。初めて見ました!
ガスコンロのホースが外れていて、ガスがテーブル上に充満していたのでした。
凄い炎です。若いお手伝いさんは、当然泣きわめいてどうしたら良いか分からない状態。
横で見ていた私も声も出せず、呆然としてしまいました。
母は私達にここから出るように叫ぶのですが、私は声も出なく足がすくんで動けなかったのです。
気丈にも母は、ガス栓をすぐ止め、お座布団のような物でテーブルの火を叩いて沈めていきます。
もう1人の年配のお手伝いさんも慌てて駆け寄って手伝って消すのですが、母の髪の毛に火が移っています。
「おかあさん!おかあさん!」とやっととの思いで叫ぶしかない私。怖かったです。
私の記憶では消防車を呼ぶこともなく収まったのですが、
その後消防士さんが、残り火がないかを調べに来ました。
母はすぐ病院に運ばれました。
父も急きょ帰宅して病院に。。。
長い時間がたちました。入院はしなくて済みましたので、父と一緒に帰宅。。。
ミイラ状体!顔は目と鼻と口だけが見えて包帯でぐるぐる。手もぐるぐる。
見ているだけて痛々しくて、私は涙が出て止まりません。どうしたら良いのか?
そこに姉たちも学校から帰ってきてオロオロしていました。暫く安静にしてなくてはね。
何週間か過ぎて包帯も外せて・・・
ドキドキでしたが、睫毛と眉毛はまだなかったけど、顔は綺麗になっていました。
あんなに火の海だったから、凄い火傷をしたのだと思っていましたが、比較的軽かったのですね。
良かった〜。


福岡で姉たちも私も中学生になりました。受験して母の母校の“福岡女学院”に通いました。
ステキな学校です。ここで前に書きました“メイポールダンス”を踊りました。
母は懐かしくてたまらない様子。
家で練習する時に、ああだのこうだのリーダーのように踊っていましたね。
私は母と共有出来る事がいっぱいあるのが、幸せでたまらなかったのです。
そしてここでの出来事です。
THE BEATLES来日”。
以前に書きましたように、
私はビートルズの大ファンで、どうしてもコンサートに東京まで行きたかったのですが、
学校側は禁止でした。
それを母は「素晴らしいものなので、許可して欲しい」と掛け合ってくれたのです。ダメでしたけどね。
理解のある母。古風な中、今風な大胆な部分を持った母でした。


また母は、私達のそれぞれの生き方を考えてくれていたようです。どこのお母さんもそうですよね。
それぞれの個性を知り、教育の仕方も違っていたのを後で知りました。
一番勉強が嫌いで出来ない私、その上とんでもない好奇心が強い私。
「勉強は出来なくても良いから、心がワクワクするような好きなことを見つけなさい」と。。。
その言葉で“料理”を見つけることが出来たのです。
後で姉に聞くと、そんなことは言われてなくて
「勉強を頑張りなさい」とか「いい奥さんになれるように」とか。。。
あれ〜?


三姉妹の反抗期・思春期も次から次へ・・・この頃からです。
厳格な父とはバトルが始まります。


次は東京転勤が決まりました。中2の夏です。