母の歴史と私5 東京編1

さて東京です。中学2年の夏休みです。
福岡での最後は母が三姉妹の友達を招待して,お別れパーティをしてくれました。
美味しい料理がいっぱい。お庭で何か分からないゲームをしたり、話をしてはしゃぎました。

私の友達が、ビートルズ好きの私に“手作りビートルズ風カツラ???”をプレゼントしてくれました。

楽しかったけど、寂しかった。
慌ただしく引っ越しの準備を終え東京へ。。。


段々面白いエピソードがなくなってくる年齢ですが、お付き合いくださいませ。


東京では、家が決まるまでホテル住まい。
お手伝いさんを1人連れてきました。
初めての銀座や新宿に胸を躍らせます。
福岡もけっこう都会だと思っていたのですが、本当におのぼりさん状態でした。
ワクワクでした。


姉たちは高2と高1、私は中2の夏です。
私達三姉妹は同じミッション系の学校の編入試験を受け、合格点を頂きました。
それぞれの学年の空席はあり、合格は頂いた物の、
3人同時に編入するという事は学校側は異例で、とても大変な事です。
高校生である姉ふたりは、他のミッション系の学校も候補に挙げられていました。
高校生からの編入は、当然どの学校でもかなり難しいですよね。
推薦してくださった当時の福岡女学院の柿園ヤエ院長先生と、東京の編入先の長野院長先生とは大親友。
色々な方のご助力と長野院長のご配慮で、三姉妹は同じ学校に行かれる事になりました。
その時代だからと私立で同じキリスト教系の学校だから成されたことで、今ではあり得ないと思います。
もうずいぶん昔のことですから、書かせて頂きました。ありがたいです。
3人同時にと言うのは、開校以来初めてのことだったそうです。
制服も間に合わず、それも色々ご配慮頂いて前の学校の制服着用でと。
ありがたいお話しですが、私達三姉妹は違う制服、それに夏服は水色。。。かなり目立ちます。
凄く恥ずかしくて、いやでいやでたまらなかったのです。
先日の還暦同窓会の時に、お世辞かも知れませんが、「あの水色の制服が可愛かった〜」と
何人かの方に言って頂いて、今さらながらホッとしたのです。
しかし、前の学校は数学は教科書の初めから順繰りに授業があったため、代数はかなり進んでいたのですが、
幾何がまったくゼロでした。また古文も漢文もゼロでしたので、遅れています。
もうチンプンカンプン。。。
困り果てていたら、それぞれの先生が声を掛けてくださって、放課後に補習授業をしてくださったのです。
なんと丁寧な学校でしょう!お陰様で、どうにか、やっとこさっとこ、付いて行かれるようになりました。
感謝ですね。


家は成城学園に決まり、学校は六本木(今と違って都会ではありましたが、当時はもっとのんびりの街でした)。
まだ成城に急行も止まらない時代で、
成城学園前駅まで徒歩で10分弱、小田急線で下北沢駅まで行き、井の頭線で渋谷駅まで乗り、
東京タワー行きのバスで六本木5丁目までというルートで1時間20分ほど・・・
かなり時間が掛かります。
小田急線も井の頭線もラッシュは半端じゃないです。
その凄さは校章のピンだけ残っていたり、制服のスカーフが後ろに回って首が絞まったり、
鞄は持っていなくても宙に浮いていたり。。。田舎から出てきた私達は毎日クタクタでした。
学校はさすが都会のお嬢様がいっぱい。ハッキリしていて物怖じしなく、ハツラツとしています。
制服を着こなすスタイルも良いし、カッコ良くてワクワクドキドキ。。。
先生との関係もスマートで楽しそう。全てが憧れる事ばかり。
なんとなく全てに引け目を感じていました。私らしからぬ。。。
編入後、“町やん”という友が一番初めに話しかけてくれて、
“何か困った事や分からない事があったら聞いてね。”と。。。
初めてホッと緊張が解れました。心強かったです。
その彼女は私達三姉妹が編入するに当たって、お骨折りくださった方のお嬢様で
父親同士は仕事関係での知り合いでもあったので、事前に編入生が入ることを知っていらしたということです。
こういう方がいないと転校生は、どうしたら良いか分からないのです。ホント助かりました。
その後も、本当に自然体で接してくれる人が多く、そして都会の人らしいサバサバさ。
憧れます。



その後、色々な友人が休みの日に誘ってくれる様になったのですが、
福岡では外出時は全て制服着用でしたので、
洒落た私服がないのです。
友達が買い物に付き合ってくれるのですが、センスの良いこと!
でも当時から(今もですが・・・)太っていた私は、なかなか合う服がなくて大弱りでした。
デパートも凄い!
ここは日本?と言うくらい見る物・聞く物・触れる物・全てがステキ!
また、横浜に住んでいる料理好きの友達ともよく遊びました。
一緒にケーキを作ったりお料理の試作をしたり。。。
彼女とはよく中華街に行ったので、その頃から横浜中華街は詳しくなったのです。
また、ある友達とは泊まり合って、ビートルズのバンドもどきをしたのを覚えています。
その3人で。。。ピアノとギター2とで歌い込みます。ヘタッピーな私も楽しませてくれました。
この頃そのメンバーでポールやジョージに変身と、それぞれに写真を撮りました。
ありましたその写真!
メイクして・・・撮って・・・自分で現像した写真です。ちょっと面白いでしょう?
ある時、デビュー間もない“ザ・タイガーズ”の宿舎に学校帰りに何人かで行ったことがありました。
たしか原宿の先の方???
なぜだかドアーが開いていて、本人は当然いないのですが、
入り口にあるスリッパを“ジュリーの〜、タローの〜”とかワイワイ言いながら触って喜んだことがありました。
青山にあった“ザ・スパイダーズの井上順さん”のアパートにも尋ねたことがありましたが、当然いつもお留守。
管理人さんが、「殆どいないよ〜」と。。。
そして武道館等でのグループサウンズのコンサート等々。。。
もう画期的に生活が変わって行ったのです。でもなかなかハイセンスさは身に付かないですが。。。
と、都会の生活が始まっていました。
そうそうプロフィールにも書きました・・・
この学校の帰り道にバスの青山で下車して“紀ノ国屋”に寄り道して、スパイス・ハーブを楽しんでいたのです。
この頃六本木・青山通りにはトロリーバス(ご存じですか?)が通っていたのですよ。それ以前は都電も。。。
沸々とスパイス・ハーブに夢を膨らませ始めたのは、この頃です。
原宿の“コープオリンピアのミルクシェイク”はとても美味しくて、週に何度か寄り道して飲みました。
モカ、チェリー、ストロベリー、チョコレート、バナナなど何種類かあり、とてもアメリカンなシェイク♪
余談ですが、その20年後に偶然そこのオーナーと再会したことがありました。
私の息子のインターナショナル幼稚園のそばで目黒の青葉台にお店を出されて、
たまたま幼稚園待ちで入ったら、そのおじさんがいたのです。
私は中学高校で通い詰めていたので顔を覚えていてくれたのでしょうか、
おじさんは30代になった私でも分かったようで、感動の再会をしたのでした。。。


六本木での下校時に食べ物に釣られて色々と。。。当然禁止ですよ。
アートコーヒーのチョコパフェ・狸のお団子はしょっちゅう寄り道していました。
ある日、見つかりました。でも、先生は「早く食べちゃって、早くお帰りなさいよ」とひと言。
なんと優しいのでしょう。
六本木、美味しい物満載。
キャンティ・ニコラス・ハンバーガーイン・アントニオ・・・憧れです。ウーン懐かしい。ワクワク!


アッそうでした。
私は芸能人が好きで、小学校の頃から色んな方にファンレターを出していました。
中尾ミエさん、いとうゆかりさん、園まりさんなど・・・サインを送ってくださいました。
東京に来て、その当時の私は“石坂浩二さん”のファンでした。何だか知的でステキ!
お住まいが田園調布だと知って、厚かましく何だかお近くのような気になって(それはそうよね、福岡から比べりゃー)
ファンレターを出したのです。
なんと返事が来ました!便箋に3〜4枚の自筆です。さすが文学的な文章のお返事。
中学生の私に“将来の夢を持ち続けて頑張りなさい”と。。。凄く感激しました。凄い方だと思います。
また成城の家は今の石原裕次郎さんのお家とお隣でした。
そのすぐそばに“田村正和さん”のお家があって、やはりファンでしたので、
“私の家はここですからサインをして郵便受けに入れてください”と
かましくハンカチを田村さんの家のポストに入れたことがありました。
バカですよね〜。
当然来ませんでしたが。。。
その後、弟の亮さんとは頻繁に道でばったり会うようになり、
ニコッと笑って“こんにちは〜”と言ってもらえるようになりました。
何だか、嬉しくて嬉しくて。。。“東京に来たんだな〜”とつくづく感じ、胸躍らせました。
ホント、ミーハーなおのぼりさんです。
ちょっと古すぎて若い方にはこの感動は、ピンと来ないでしょうね。スミマセン!



その学校は“母の会”が充実しているので、母も学校に行く回数が多かったと思います。
そこでまたです!
ある日、母が学校の帰りに渋谷の歩道に少し穴が空いていて、そこに足が入ってしまい捻ったらしいのです。
そこから家までって、乗り換えもあり、結構あるのですが、
そのまま帰って暫くしたら痛みが酷く、腫れていたのです。
骨折でした。またまた痛みに強い母。我慢やさんですね。でもビックリね。


その頃私は心臓が悪く、時々発作を起こしていました。
学校でも心臓発作が酷く、エレベーターを使わせて頂き、体育や中学の修学旅行は出来ませんでした。
それで休みがちになった私は、学校に行くのが億劫になって、暫く行けなくなりました。
いわゆる不登校のようなもの。そんなに深刻なものではないのですが・・・
でも母は、学校に行きなさいとは言いませんでした。暫く好きな料理を一緒にやってくれました。
マヨネーズを作ったり、ケーキにチャレンジしたり。。。
その内、その後親友になった“鎌ちゃん”が(以前書きましたBREAKERZリードギターが彼女の息子の慎平君です)、
勉強が遅れるといけないからと言って、とっても丁寧なノートを何冊もほぼ毎日、
姉に預けてくれるようになりました。
その彼女がいてくれたから学校に行く気になったのです。
母は鎌ちゃんに、とっても感謝していました。
その後、彼女は頻繁に泊まりに来ていまして、4姉妹のようになっていました。
母もとても嬉しそうでしたね。
その内、私も泊まりに行くようになりました。本当に姉妹のような親友です。
また、よく私の家に友達が泊まりに来ていました。結構一度に何人も。。。
でも母はそれを楽しんでくれて、
ご馳走をいっぱい作ってくれるので“おかあま、おかあま”と大人気でしたね。



東京では母は茶道を自宅で、お月謝を頂かずに教えていました。
若い男性もいらして、皆さんはこの和の空間時間をとても楽しんでいらっしゃいました。
母は父と三味線と小唄を一緒に自宅で習っていたのですが、
音程が時々狂う父の小唄は、なんかね〜、ちょっと変。
絶対音感のようなものがある母は、父のことを「音程が狂うと微妙に気持ち悪いのよ」と言っていました。
内緒ね。
私はやはり和風好き。三味線の音が聞こえると夢心地になっていました。
何だか時代劇のイメージを膨らませて楽しんでいました。ちんとんしゃん♪いい音色ですよね。
父と母は書道も一緒に習っていました。やはり仲良しです。
両親のチャレンジは凄い物で、父は50歳半ばから英会話を習い始め、
そして会社に行く車の中でいつもカセットを聴いていたのには頭が下がります。
海外出張も多かったのです。
結局話せるほどにはならなかったのですが、勢いと図太さで変な英語も通じるようになっていました。
語学は度胸ですね。
母は編み物や刺繍、お花、日本料理とフラダンスを習っていました。
そして初めに書きました70歳過ぎてから孫達と再びピアノを習たのです。ステキです。
このチャレンジ精神は凄いと思いますし、全て楽しそうなのが良かったです。


少し長くなりましたので、ここでいったん一休みにしますね。